グットマン博士の言葉との出会い

「失ったものを数えるな 残されたものを最大限生かせ」
──“パラリンピックの父”と呼ばれる、ルードウィヒ・グットマン博士のことば。

博士は、第二次世界大戦の傷痍軍人の治療にスポーツを取り入れた人物です。
その後、入院患者を対象に競技大会を始め、パラリンピックの創始者と呼ばれました。

過去の喪失に囚われず、今ある能力や可能性を最大限に活かすことの大切さを説いたのが冒頭の言葉。

この言葉を数日前初めて知り、とても共感を覚えました。
3年前に脳卒中で倒れた時、不思議と失望より先に、グットマン博士のこの言葉と同じ思いが湧いてきたからです。

病院で目覚めた瞬間

目覚めた時、身体は鉛のようにだるく、特に右半分が妙な感覚に包まれていました。
右腕も右足も、まるで存在そのものが消えてしまったかのよう。動かそうとしてもピクリともしない。

左手で右手に触ると、触れているはずなのに、右手は何も感じない。

そこにあるのは確かに自分の腕なのに「ただの肉の塊」でした。
右足も同様に1ミリも動かない。

「ああ、右半身が麻痺しているのか」
その事実がわかっても、不思議と胸の奥には絶望の影が落ちませんでした。

試しに左手で右手を持ち上げてみる。だらりと力なく垂れ下がる様子は、まるで自分のものではないよう。左手を離すと「バタン」とベッドに落ちる。

その様子がなぜか面白くて、何度も何度も繰り返しては眺めていました。

「なってしまったものはしょうがない。まあ、なんとかなるでしょう」

その後、しばらく経ってから病名を知ることになりますが、今日に至るまで基本的にこの考えや思いは変わりません。

なぜそういう反応ができたのか

普通なら絶望的な状況と捉えるかもしれませんが、ただ目の前の状況をフラットにそのまま受け止めていました。

なぜそのような反応になったのか。
心理学的に考えると、いくつかの理由が考えられると思います。

比較対象の違い
まず、比較対象が「元の自分」ではなく「今できること」になっていたこと。これにより、良い・悪いとか、プラス・マイナスと評価する前に、単純に“現状”として受け止められていたのだと思います。

課題解決型の思考習慣
「動かない」→「じゃあどうする?」という流れが自然に出ていました。これは、アドラー心理学で学んだ「できていることに注目する」習慣や、過去の仕事で身につけた課題解決力が影響しています。

ユーモアという防衛機制
そして、手が落ちる様子を「面白い」と感じたのは、心理学でいうユーモアの防衛機制。困難を軽やかに受け止める心の働きが、精神的ダメージをやわらげてくれました。

自己効力感の高さ
幼少期からの経験で培われた自己効力感──「まあなんとかなるだろう」という感覚──も大きいです。小さい頃から両親に自分の意思を尊重され、選択の自由を与えられた経験が、「状況が変わっても自分は対処できる」という土台を作ってくれていたのだと思います。

「諦め」ではない

もちろん、右手足をそのままにしておくつもりはありませんでした。
入院中、もうこれ以上はできないというくらい、起きてから寝るまで必死でリハビリをしましたし、3年経った今も毎日続けています。

動かない部分を少しでも動くようにする努力は、これからもやめるつもりはありません。

ただ、その一方で「今すぐ使える力」を活かすことにもすぐ意識が向きました。
この不自由な状況から抜け出し、一人でなんでもできるようにしなきゃと。

右手が動かないからできないじゃなく、とにかく一人でなんでもトライしてみる。
左手は動く、口も動く──ならそれでできる方法を考えればいい。

たとえばペットボトルの蓋は口で開けられるし、着替えも左手で工夫する。
そうやって、“残された機能”も最大限使い、回復期病棟でナースコールを押すことは一度もありませんでした。

できないからと言って、安易に人に聞いたり頼ったりせず、まずは自分で考えてやってみる。
教えてもらわずとも、大概のことはこれでできるようになり、逆に看護師さんや療法士さんたちに感心されたりもしました。

「やり方」なんて正解はないし、結果できればいいのですから。

これは意識的に切り替えたというより、「今できることは何か?」自分の頭で考える習慣が、非常時にも自然に出たからだと思います。

正の注目と負の注目──できている部分を見るということ

わたしが以前学んだアドラー心理学では、「正の注目」と「負の注目」という考え方があります。

簡単に言うと、人は“どこを見るか”によって、その部分がさらに目立つようになり、行動や感情に影響するということです。

たとえば、子どもがテストで100点満点中95点を取ったとします。
ここで「5点足りなかったね。どうして間違えたの?」とできなかった部分だけを指摘すると、子どもは「自分は足りないところが多い」と感じやすくなります。これが“負の注目”です。

逆に、「よく頑張ったね。ほとんど正解だったじゃない」とできている部分を評価すれば、その達成感がやる気につながります。これが“正の注目”です。

たいていの場合、できていない部分の方が目に付くので、つい指摘したくなる。
できていることの方が圧倒的に多いのに…。

これは日常生活や仕事、人間関係にも当てはまります。
できない部分ばかりに意識を向ければ、心は重くなり、行動も消極的になりやすい。
でも、できている部分、残っている力に目を向ければ、自然と前に進むエネルギーが生まれます。

この考え方は、わたしが脳卒中で倒れたときにも当てはまり、右半身が動かないという事実はありましたが、「動かない部分」に意識を固定するのではなく、無意識のうちに「左手は動く」「口も動く」という残された機能の方に目が向いたのだと思います。

そして後になって“パラリンピックの父”グットマン博士の「失ったものを数えるな 残されたものを最大限生かせ」という言葉を知ったとき、「ああ、自分がやっていたことは、まさにこれだったんだ」と深く共感しました。

「残されたものを生かす」生き方

グットマン博士の言葉に出会った時、自分の考えを後押ししてもらえた気がしてとてもうれしく思いました。

失ったものを数えても、過去は変わらないし、身体が元に戻るわけではありません。
それよりも、今あるリソース(右手足も含めて)を使って、前に進むほうがいい。

わたしの場合、この感覚は特別な努力ではなく、幼少期からの価値観や学び、そして経験が積み重なって自然に生まれた「反応の型(思考のクセ)」です。

右半身が動かないことも、左手や口が動くことも、どちらも事実として受け止めながら日々を送る。
その中で、ふと気づいたことがグットマン博士の言葉と重なりました。

失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限生かす──
その実感が、わたしにとって大きな気づきであり、3年前のあの日から今に至るまで、支えになっているのです。