ただ話を聴いてほしかっただけかもしれない

こんにちは。
わたしスタイルLABOのacoです。

「あんまり気にしすぎないようにね」
「そんなの誰にでもあるから、気にしすぎだよ」

そんなふうに言われたこと、ありませんか?
きっと言っている相手に、悪気があるわけではないんです。
むしろ、元気づけよう、励まそうとしてくれている。

それはわかっているけれど──
そう言われたとき、心の奥がチクっと痛むことがあります。

自分が感じていたつらさや苦しみを、なかったことにされている。
または、「たいしたことじゃない」と言われたような、そんな気持ちになるのです。

見た目にはわからない「前と違う自分」

3年前、わたしは脳卒中を経験しました。
それ以来、右半身の麻痺に加えて、高次脳機能障害や、しびれ、痛みといった後遺症に向き合う日々が始まりました。

これらの症状は、麻痺のように見た目でわかるものではありません。
だからこそ、「前と違う自分」に出会う場面で、戸惑うことが増えました。

たとえば、
重要なことが思い出せない。
言いたい言葉がなかなか出てこない。
絶え間なく襲う痛みや、ピリピリと続くしびれ。

でも、周りからは「元気そうだね」「変わらなく見えるよ」と言われる。
そのたびに、「この感覚は、誰にもわかってもらえないのかもしれないな」と、ふと感じてしまうのです。

「わかるよ」すら、時には傷をつけてしまうことも

同じ脳卒中の経験者でも、後遺症の種類や程度は本当に人それぞれ。
だから、高次脳機能障害や痛み、しびれがない方にとっては、その大変さをイメージするのは難しくて当然です。

そんななかでかけられる「わかるよ」という言葉。
この言葉も、気をつけて使わないと、相手を傷つけてしまうことがあります。

「わかるよ。」のあとに続くのが、「わたしも〜」と延々と自分語りだったとしたら?
あるいは、「わたしのときは、もっと大変だったよ」「それくらいなら、まだいい方だよ」という言葉だったとしたら?

その言葉はもはや励ましではなく、相手を傷つける刃物同然。
声を出そうとしていた気持ちが、そこでしぼんでしまいますよね。

わたしの心を癒した、たったひとこと

でも、そんななかで、今でも心に残っている言葉もあります。

退院してまもなく、かかりつけの病院を訪れたときのこと。
検査室で久しぶりに会った、顔なじみの看護師さんが、そっとハグしてくれました。

「生きていてくれて、ありがとう。」
その瞬間、涙が滲んできました。
身内でも、長年の親友でもない人から、
「存在そのもの」を肯定されるような言葉をもらったのは、病後初めてだったから。

言葉以上の何かが、そこにはありました。
痛みや苦しみを「どうにかしよう」とされるのではなく、
「そのままのわたし」を受け止めてもらえたような──そんな気がしました。

わたしたちが本当に求めているのは、「聴いてくれること」

つらいと感じているとき、人が求めているのは「同情」や「共感の押しつけ」ではないと思います。
本当に必要なのは、「聴いてくれる」こと。
話を途中でさえぎらず、「そうなんだね」「うんうん」と、ただ受け止めてくれること。

「そんなことくらいで」と言われると、次からもう何も言えなくなってしまいます。
「大したことない」と思われるなら、無理に話す必要もないかな、って。

だからこそ、
「つらかったね」
「話してくれてありがとう」
そんな言葉が、どれほど心を救ってくれるか、身をもって知りました。

「聴くこと」の奥深さに、いま気づかされる

わたしは以前、アドラー心理学を何年も学び、コーチングの資格を取るために学校にも通いました。

その中で「傾聴」──つまり「聴くこと」の大切さもたくさん学びました。
けれど、いま振り返ると、まったくわかっていなかったのかもしれません。

自分が大きな病を経験し、「患者」という立場になってみて、はじめて知ったことがありました。

そこには、普通のコミュニケーションとは少し違う、とても繊細でデリケートな領域があるということ。

そして、そこでは「聴くこと」は、ただのスキルではなく、
相手の存在をまるごと受けとめる姿勢そのものなのだ
と、身をもって実感したのです。

ことばは、羽にも刃にもなるから

わたしたちは、コミュニケーションの中で、つい「何か言わなくちゃ」と思いがちです。
沈黙が怖くて、つい言葉を足してしまったり、励ましのつもりで声をかけてしまったり。

わたしにも、そういう傾向が大いにあります。
でも、ほんとうに必要なのは、言葉を選ぶ力よりも「聴く力」だった。

言葉は、ときに刃みたいに人を傷つけてしまうけれど、
誰かの心をそっと支える、羽のような存在にもなれる。

わたしもまた、今日から少しずつ「聴く」を意識してみようと思います。

すぐに「わかるよ」や「気にしすぎだよ」と言うのではなく、
まずは静かに「聴くこと」を大切にしていきたいな、と。