こんにちは。
わたしスタイルLABOのacoです。
ある日、SNSで流れてきた投稿にふと引っかかり、心がザワつきました。
病気になり、自分の体に障害が残ったことを「五体満足で産んでもらったのに申し訳ない」と。
そうよね。わたしも五体満足で産んでもらったのよね…と思うと同時に、胸の奥がキュッと締めつけられるような感覚が。
わたしも脳卒中で後遺症を負い、さまざまな障害を抱えて生きています。
この3年、たくさんの人に支えてもらい、特に家族にはいろいろと心配をかけてきました。
だから「申し訳ない」という気持ちは、痛いほどよくわかります。
でも、「申し訳ない」に込められた意味が、「生きていてごめんなさい」と繋がってしまう人もいるかもしれない。そう思うと「申し訳ない」は、とても切ない言葉だな、と。
わたしたち日本人が背負ってきた“申し訳なさ”
日本では、「親に迷惑をかけないように」「ちゃんとした人間にならないと」と言われて育つことが多いように思います。
「五体満足で産んでもらったんだから」
「健康に生まれたんだから、親に感謝しないと」
それらの言葉が、いつの間にか「だから、ちゃんと健康でいなきゃ」「親をがっかりさせちゃいけない」というプレッシャーに変わっていく。
また、何かができなくなったとき、病気になったとき、わたしたちはとても強く「迷惑をかけてしまった」「申し訳ない」と感じてしまう。
中には、「こんな体になってしまって、生きていて申し訳ない」とまで思ってしまう人もいます。
「一家心中」や「恥をかかせたくない」という言葉が教えてくれること
日本には「一家心中」という言葉があります。家族みんなで死を選ぶという極端な例ですが、それが一種の「美談」として語られてきた背景も。
「恥をかかせるくらいなら死んだほうがいい」
「家族に迷惑をかけてまで生きるのはよくない」
そんな考え方が、少なからずわたしたちの文化には根づいていて、親子のつながり、特に母子の密着度は高いように感じます。
このような価値観の中で育ってきたからこそ、「親に申し訳ない」という感情が、自分の存在を責める方向へ向かいやすくなってしまうのかもしれません。
海の向こうの価値観は?
海外では、お隣の韓国などは儒教による価値観からか、日本よりもその傾向が強いようです。ですが一転、欧米に目を向けると、そもそも病気や障害を「本人のせい」とは捉えない傾向があります。
親子関係も、日本のように「親に報いるべき」「親に迷惑をかけてはならない」といった考え方はそれほど強くありません。
個人の人生は、その人個人のもの。
誰もが「自分らしく生きる権利」を持っていて、たとえ障害があっても、それは「責められること」ではなく、「支え合うこと」が前提になっている。
もちろん、どちらが正しいという話ではありません。
ただ、「申し訳ない」と思いつめる文化と、「どうすれば支え合えるか」と考える文化の違いを感じます。
「ありがとう」で生きる道もある
わたしもまた、「母に心配をかけて申し訳ない」「子どもに負担をかけたかもしれない」と思うことも多々あります。
でも今は、「申し訳ない」「ごめんね」ではなく、代わりに「ありがとう」と言えるようになってきました。
助けてもらうことは、悪いことではない。
もしこれが逆の立場だったら?もちろん喜んで助けるでしょう。
息子や娘に、そして父や母にも、もし「申し訳ない」なんて言われたら…本当に胸が痛いはず。
大切な家族には笑っていてほしいから。
わたしが笑っていることで、誰かも笑ってくれるかもしれない。
わたしが生きていることで、誰かが「生きてていいんだ」と思ってくれるかもしれない。
今も揺れる日がないわけではありません。心が苦しい日もあります。
でも、「生きててごめんなさい」ではなく、「今日もありがとう」と言える日を、少しずつ増やしていきたい。そんなふうに思っています。
どんな言葉を使うのか?
言葉には、文化が詰まっています。
わたしたちが当たり前のように使ってきた言葉のなかに、自分を縛る価値観が潜んでいることもあるかもしれません。
「申し訳ない」という気持ちは悪いことではないけれど、それに縛られて、自分の存在そのものを責めてしまわないようにしたい。
もっと自由に、自分のペースで、生きていけるように。
わたし自身も、言葉の選び方を見直しながら、日々を過ごしています。
どんな言葉を使うのかは、意外と重要です。言葉は言霊。今日使う言葉が、今日という一日をつくるから。
最後に
もし今、あなたが「申し訳ない」と思いながら日々を生きているとしたら⸻その優しさは、きっと誰かを思う気持ちから来ているのだと思います。
でも、どうか、「生きててごめんなさい」にならないでください。
あなたの存在は、誰かにとっての光かもしれません。
今日も、ありがとう。
そして、わたしも、生きていてよかったです。