異形である障害者が「気持ち悪い」とされる現実
こんにちは。
わたしスタイルLABOのacoです。
先日、SNSで「障害者は気持ち悪い」という書き込みが不意に目に入り、「気持ち悪い」という言葉に非常に驚いた。
辞書によると、
きもち‐わる・い【気持ち悪い】 読み方:きもちわるい[形]
1 心身の状態が悪い。胸や胃が重苦しかったり、吐き気がしたりする。「食べ過ぎて—・くなる」
2 見たり触ったりしたときの感じが悪い。「—・い色の虫」「靴が湿っていて—・い」
3 不満や疑問などが残り、心が晴れない。「名前がなかなか思い出せず、—・い」
とある。
今回のケースは、2の「見た目が気味が悪い」という意味で障害者に向けられているのだろう。「気味が悪い」に近いのかもしれない。
もしその人が「健常者と違う見た目をしている障害者は気持ち悪い」と感じているとしたら、わたしには信じがたい感覚だった。
わたしは中途障害者だが、健常者だった頃も「障害者を気持ち悪い」と思ったことはなかったし、自分が障害者になってからも「障害者は気持ち悪い」と思ったことは一度もない。
だから、この言葉にはとても驚いたし、また改めて「世の中にはそういう視点で障害者を見る人がいるのか」と考えさせられた。
見慣れないから「怖い」「気持ち悪い」
昨日、駅からの帰り道に杖をついて歩いていると、小学校の下校時間に重なった。小学2年生くらいの女の子が、わたしを追い抜きざま、まじまじとわたしの足と歩き方を見てきた。
わたしと目が合うと視線を逸らしたが、直後にわたしの歩き方を真似しながら、足を引き摺るようにして去っていった。
女の子に悪意はなかったと思う。わたしが杖をつきながら歩いている姿が珍しかったのだろう。
わたしのように比較的若い年齢で杖を使っている人は珍しいから、初めて見る光景だったのかもしれない。彼女の中では「見慣れないもの=不思議なもの」だったのだと思う。
わたしたちは異形のものに対して、恐怖、畏怖、嫌悪を抱きがちだ。それは「知らないもの」に対する自然な反応でもある。
小さい子どもにとっては物珍しさや興味の対象になるが、大人になると「怖い」「嫌い」「気持ち悪い」に変わってしまう人もいる。
知らないから怖い。知らないから嫌い。知らないから気持ち悪い。この「知らない」が、偏見や差別の土壌を作っているのだと思う。
20代の頃に出会った「インクルーシブ教育」
わたしは20代の頃、日本語教師のアシスタントとしてオーストラリアの公立小学校に1年間赴任した経験がある。
そこでは障害のある子どもたちも当たり前のようにクラスに在籍していた。中には重度障害の子もいたが、特別な場所に隔離されることはなかった。
特に印象的だったのは、Grade5のアンジェリカ。彼女は背中まで支えるタイプの大きな車椅子に乗り、話すことはできても涎が垂うため、ビブ(よだれかけ)をつけていた。そして必ず彼女の隣には、専任のサポートスタッフがついていた。
クラスメイトはアンジェリカに自然に話しかけ、必要があれば助けていた。わたしが「障害のある子は別のクラスで学ぶもの」と思い込んでいた当時、この光景は衝撃的だった。
今振り返れば、あれこそがインクルーシブ教育だったのだと思う。障害のある子もない子も「同じクラスの仲間」として自然に関わっていたのだ。
30年前の出来事。
30年後の今、日本はどうだろう…。
知らないから生まれる「異形視」をなくすために
わたしは、障害者に対する「気持ち悪い」という感情の多くは、知らないことから生まれていると思う。だから「知る」機会を増やすことが必要だ。
例えば、小中学校で障害理解を深める授業を取り入れること。絵本やアニメに障害のあるキャラクターが自然に登場すること。地域のイベントで障害者が役割を担う姿を見せること。こうした接点が少しずつ偏見を減らしていくのだと思う。
そして当事者としてできる範囲で、自分の体験や思いを発信することも大切だと思っている。
わたしたちはマイノリティで、数は圧倒的に少ない。けれどSNSやブログで声をあげれば、少なくとも「知らなかった誰か」に届き、「怖い」や「気持ち悪い」が「知っている」「当たり前」へと変わるきっかけになるかもしれない。
30年前に見たオーストラリアの小学校のように、日本でも「異形」だと感じさせない社会を、少しずつでも作っていきたいと思う。