「無言の帰宅」から受けた衝撃

こんにちは。
わたしスタイルLABOのacoです。

先日、SNSで「無言の帰宅」という言葉の意味がわからない人がいる、と話題になりました。

山で遭難した人の家族が「無言の帰宅をしました」と投稿したのに対し、「よかったですね!」というリプライをつける人が散見され、議論となったわけです。

無言の帰宅」とは、亡くなったことを(遠回しに)表現するときに使われる言葉
それを「帰宅はしたけれど黙っている=生きている」と勘違いする人たちがいたとのこと。

その話題を知った当初は、内心、
「いい大人がそんなことも知らないの?」と衝撃的だったし
「アホちゃうか…」と正直あきれました。

しかしその後
「これは発達障害の特性と深く関係しているのではないか」
というポストを見て、思わすハッととしたのです。

文脈から読み取ることが苦手な人にとって、「無言の帰宅」という言葉は、そのままでは意味が通じない。暗黙の了解やニュアンスを前提にした表現は、明文化されないと理解が難しい。

発達障害当事者の方でしたが、
対策は知ること。 読み取れないなら、経験や知識を言語化し習得するしかない。
といったことも書かれていました。

これを見たとき、
「常識でしょ」「当たり前でしょ」とか……わたしはなんて傲慢だったんだ!と自分を恥じました。

(もちろん、これが全ての発達障害の人に当てはまるわけではないことも理解しています。)

わたしは、自分が高次脳機能障害を抱えてからというもの、自分の困難さに対しては敏感になりました。
忘れやすさ、情報処理の苦手さ、体感覚の変化──それらを理解してほしいと強く願ってきました。

けれども、その一方で、他の障害や特性を持つ人への理解は浅かったのではないかと。
「自分の困難さをわかってほしい」と思う一方で、「相手の困難さ」に目を向けられていなかった。

その矛盾に気づいたとき、深く反省しました。

「常識でしょ?」という言葉の傲慢さ

「常識でしょ」「当たり前でしょ」という言葉は、よく使われます。
けれども、それらは往々にして自分の物差しでしかありません。

例えば「無言の帰宅」を知らなかった人に対して、「なんで知らないの?」と責めるのは、知識や経験を共有していない人を一方的に切り捨てる態度です。

それは相手を理解しようとせず、自分の基準だけで判断しているに過ぎません。

障害のある人の間でも同じことが起こります。
同じ障害名を持っていても、症状は人によってまちまち。

たとえばわたしは脳卒中の後遺症で右手脚の麻痺と高次脳機能障害がありますが、同じ病気による後遺症だとしても、その症状は人によって全く違います。

もちろん障害者ではなく、健常者同士でも起こりうることですが、
「わたしにはできるのに、あなたはなぜできないの?」
という見方も、また傲慢な視点だと思います。

「常識」や「当たり前」は、じつは個人の体験や環境に強く左右されるもので、普遍的な真理ではないですよね。

倫理と常識は違うもの

ここで誤解してはいけないのは、「常識は人それぞれ」と言ったときに、何でも許されるという意味ではないということ。

「人を殺してはいけない」
「暴力をふるってはいけない」
「人をだましてはいけない」
といった倫理的な規範は、社会を成り立たせるための大前提です。

これは「常識」や「当たり前」というレベルではなく、人間が共に生きるうえで絶対に必要なルールです。誰もが共有すべき土台であり、ここに例外はありません。

一方で、それ以外の「常識」には揺らぎがあります。
たとえば、

  • 電車の中で電話をしてはいけない
  • 靴を脱いで家に上がる
  • 挨拶のときにお辞儀をする

こうした行動は「日本社会における常識」ではあっても、世界に目を向ければ通用しない場合も。

海外では、電車の中で普通に通話することが許される国もありますし、土足で家に入る文化もあります。
また、お辞儀の代わりに、握手やハグをするのが当たり前の国もあります。

あるいは、世代間の違いでも同じことが言えます。
「目上の人にタメ口を使うなんて非常識だ」と思う人もいれば、最近の若い世代の中では、フラットな関係を重視してあえて敬語を使わない場面もあります。

会社員時代に培ったマナーが「常識」だと思っていたとしても、それは一部の社会に限定されたルールであり、普遍的なものではありません。

「倫理」と「常識」を混同してはいけない
倫理は人を守るための最低限のルール。
常識はその社会や文化、あるいはコミュニティの中で生まれる習慣や暗黙の了解に過ぎません。

もしこの二つを混同すると、問題が生じます。
「自分にとっての常識」を絶対視してしまい、それに従わない人を「非常識だ」「間違っている」と攻撃してしまう。

けれども実際には、相手は単に違う文化や背景を持っているだけかもしれません。

(もちろん、「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように、その国のルールや文化を尊重する姿勢は大切です。)

まずは違いを知ることから

今回強く感じたのは、「違いを知る」ことの大切さです。

暗黙の了解や常識に頼らず、相手にとってはどう見えているのか、どう感じているのかを知ろうとする。
その姿勢が、大切なのではないかと。

「常識でしょ?」と切り捨てるのは簡単です。
でもそうではなく、「なぜそうなったのか」を理解しようと努めること。
今回の出来事を通して、自分自身の傲慢さも気づかされました。

SNSでは、誰もが簡単に意見を発信できるようになった一方で、
その分だけ「常識」という名の線引きが増えている気がします。

でも、本当に必要なのは線を引くことではなく、
その向こうにいる誰かの世界を少しでも理解しようとすること。

わたしもまた、自分の「当たり前」を疑いながら、
それでも人とつながっていけるように、日々を丁寧に過ごしていきたいと思います。