2022年7月49歳の時に脳卒中で倒れ入院、1週間後めでたく50歳に。
後遺症で右片麻痺になり7ヶ月のリハビリ入院。12月noteをはじめ、2003年2月に退院。現在は通所リハビリ継続中。これまでの経緯と入院闘病記はこちら↓
こんにちは。わたしスタイルLABOのacoです。
先日読んだこちらの本。
『東電OL殺人事件』
今から27年前に連日マスコミを賑わせたこの事件。
なんとなく思い出してルポを読み、読後感想を書いた。
容疑者逮捕も、冤罪事件として注目を浴び、未解決のまま幕を閉じた。
そして未だに真犯人は捕まっていない。
冤罪により捕まった犯人が不法滞在の外国人であったこと、また被害者が大手企業勤務のエリートにも関わらず、夜な夜な売春をしていたことも大きな注目を集めた。
有名私立高校からエスカレーターで附属大に入学。大学を卒業し大企業の総合職に。まだまだ女性は腰掛け=結婚して寿退社が多かった時代。
そんな中、総合職しかも役職にまで就いていた彼女がなぜ…。
いくら事実(ノンフィクション)や裁判記録を辿ったところで、当然のことながら”なぜ”には辿り着けなかった。だってもう彼女はこの世にいないのだから。
それでも”なぜ”が消えず、胸の奥でトグロを巻く。そんな時、紹介されたのがこの本『グロテスク』。フィクション、創作の世界ではあるが、この事件から起草されたという小説だった。
有名私学に潜む階級社会
この小説にも出てくるQ学園。
事件を知る人なら、すぐにあの有名私立学校を思い浮かべるだろう。
幼稚舎と呼ばれる小学校から大学までの一貫教育。中学受験、高校受験でも生徒を受け入れる。
地方だとピンとこないかもしれないが、東京(周辺)ではいわゆる「お受験」と呼ばれる、義務教育年齢での国立や私立の受験が盛んだ。
早期教育には批判もあるだろうが、良くも悪くも東京にはそういう環境があり、またそれを望んでわざわざ住環境を揃える家庭もある。
Q学園は私学の中では最高峰郡にあり、そこに通う生徒たちも一目置かれる。
ただし「いつからいたか?」で目には見えない「区別」がされ、「内部」「外部」という名称で、その区別は一生ついて回る。
小学校からの内部なのか、中学入学組か、高校入学組か。途中入学組は熾烈な受験戦争を勝ち抜いているため、もちろんそう言った意味では「勝ち組」だけど、「外部」という疎外感は否めない。
これはエスカレーター式の学校特有のことで、Q学園に限らずある。
いじめではないが、「区別されている側」はそういう対応に嫌悪を抱いているだろうし、そうでない側は至って無邪気に無意識に区別する。
怪物を産む社会の構図とヒエラルキー
スクールカーストという言葉を聞いたことがあるだろうか。
表立っていじめがあるわけではなくても、目に見えない序列やヒエラルキーが日常に深く染み込んでいる。
本作においても、この見えない「格付け」が、じわじわと人の内面をむしばむ様が描かれている。
この物語には“怪物”が何人も登場する。
けれど、その誰もがもともとそうだったわけではない。
家庭環境、学歴、容姿、性格…それらを取り巻く社会の価値観、偏見、差別、評価。そして何より、他者との比較の中で、自分の立ち位置を無意識に定めてしまう社会。
「優れていないと生きる意味がない」
「勝ち続けなければ価値がない」
──そんな風に刷り込まれた人間が、自らの劣等感に押しつぶされる時、内なる怪物が目を覚ます。
誰の心にも住む怪物
主人公「私」は、妹ユリコへの嫉妬と劣等感を決して隠さない。
いや、隠すどころか、言葉にして突きつけてくる。
ユリコは美しい。天性のルックスと甘え上手な性格で、誰からも愛され、羨望を集める存在だった。
一方「私」は、どこか冴えず、他人の目ばかり気にして生きている。
けれどこの作品は、単に美醜の対比や姉妹の確執を描いているのではない。
作者は容赦なく問うてくるのだ。
「あなたの中にも、この“私”がいないか?」と。
私たちは誰しも、自分より恵まれた誰かに劣等感を抱き、心の中で勝手に競争し、勝手に敗北し、勝手に傷つく。
そして、見えない心のなかの怪物が、他人を断罪し、蔑み、排除しようとする。
読んでいて胸がざわざわするのは、この“私”があまりにも生々しいからだ。誰の心にも、その片鱗は潜んでいる。わたしの中にも。
排泄を受け入れる存在
本作で象徴的に描かれるのが、“排泄”というテーマだ。
社会の中で、価値がないとされる存在。
はみ出した者、はみ出させられた者。
彼女たちは、自らの身体を売ることでしか“ここにいる”ことを証明できなかった。
売春という行為を、快楽や金銭のためと断じるのは容易い。
でも、この小説を読むと、それが“自分を存在させる唯一の手段”であるようにも思えてくる。
彼女たちは、社会から“排泄”された存在だったから。
そしてその排泄物を、唯一受け入れてくれたのが、売春という営みだった。
それは、決して救済ではないのだけれど。
むしろ底の底に沈んでいくような感覚が、わたしを静かに苦しめた。
狂気
『グロテスク』というタイトルは、ただの形容詞ではない。
この小説そのものが、“社会のグロテスクさ”を暴き出す装置だ。
読み終わったあと、なにか鮮やかなものが残るわけではない。
むしろ、黒く澱んだものが胸の奥に沈んでいく。
でも、それこそがこの作品の本質だと思う。
この社会の中で、自分は“まとも”なのか?
この作品に登場する怪物たちと、自分は本当に違うのか?
そう問いかけずにはいられない。
読後、しばらく言葉を失ってしまったのは、その問いに明確な答えが見つからなかったからかもしれない。
『グロテスク』は、単なるフィクションではない。
そして、フィクションだからこそ暴ける現実がある。
ページを閉じたあとも、なお心に刺さり続ける、そういう小説だった。
※昨年(2024年9月)に途中まで書き上げたものを、2025年5月31日に仕上げました。