2022年7月49歳の時に脳卒中で倒れ入院、1週間後めでたく50歳に。
後遺症で右片麻痺になり7ヶ月のリハビリ入院。12月noteをはじめ、2003年2月に退院。現在は通所リハビリ継続中。これまでの経緯と入院闘病記はこちら↓

病気で倒れる前は、ビジネス書ばかり読んでいたが、倒れてからは脳卒中や終活などに関する本を読むことが多くなった。

最近は小説やエッセイ、ノンフィクションなど、色んなジャンルの本を読んでいる。

今回は実際に起きた事件のルポルタージュ。それも27年も前の事件。


どんな内容でも、以前のように文章をサクサク読むことができず、この本もだいぶ時間がかかってしまった。

脳の易疲労が強く、数ページ読むと疲れてきて、文字を辿っていても頭には残らず。目線が文字を上滑りする。

そんな状態だったけど、どうしてもこの本を読みたい理由があった。

事件の概要

今から27年前に起きたこの事件。
当時はセンセーショナルに連日報道されたので、覚えている人も多いと思う。


1997年(平成9年)3月8日。
渋谷の古いアパートの1室で、東京電力に勤める39歳の女性が亡くなった。

しかもその部屋は空室で、電気も通っていない状態。

死因は絞殺。つまり殺人事件。程なくして逮捕されたのはネパール人の男性だった。


何より衝撃的だったのは、被害者が慶応卒東電勤務のバリキャリだったこと。

彼女はエリートOLという「昼の顔」を持ちながら、渋谷で毎夜売春を繰り返すという「夜の顔」も持ち合わせていた。

そこで客として知り合った不法就労の外国人に殺害されたというのが、当初の報道だった。

結論から言うと、逮捕されたネパール人男性には無罪判決が降り、今日まで未解決事件のままである。

時代背景

事件の起きた1997年といえば、既にバブルが弾けた後。

ただ95年に大学を卒業した氷河期世代のわたしとは違い、男女雇用機会均等法が導入された80年代に総合職として活躍したキャリアウーマンは眩しい存在のはずだった。


その彼女が、夜な夜な客を求めて渋谷の円山町というラブホテル街に立つ。

自分から声をかけて客を捕まえ、終電間際まで毎日複数人を相手にし、時には数千円という金額で身体を売る。


わたしだけでなく、多くの人が混乱したはずだ。

「なぜ?」


もちろんお金に困ってのことではない。
東京出身の彼女は杉並の実家住まいで、慶応義塾高校から慶応義塾大学に進学している。

大学生の頃、やはり東電に勤務していた父親が亡くなったものの、卒業後東電に就職した。給料も充分もらえていたはずだ。

平日は会社勤務を続けながら、夜は売春。土日も休みなく売春行為をし、昼夜合わせて働き詰めで、全く浪費をしていた形跡もない。

彼女はわたしだったかもしれない

27年も前の事件をなぜ急に思い出したかというと
「彼女はわたしだったかもしれない」というのを何かで見たからだ。

心がザワついた。


わたしにとって事件の起きた20代の頃は、ただのナゾ多き事件というだけの受け止めだった。


当時過熱気味だった報道も次第に落ち着き、とうとう未解決のまま今日に至る。

わたしも気づけばいつの間にか彼女の年齢(39歳)をとうに越して、すっかり事件のことは忘れていた。


あれから年齢を重ね、経験を重ね、改めて事件を振り返ると、20代とはまた違う受け止めになる。

「彼女はわたしだったかもしれない」という言葉が、なぜか心の奥にズンと重く引っかかった。


時代背景も違うし、高学歴でもなく、キャリアウーマンでもないわたしが、彼女になり得る要素はこれっぽっちもないと失笑を買いそうだが。


背景は違えど、なんとなくそう考えた女性は他にもたくさんいたんじゃないか。

そんな思いから、どうしても改めてこの事件について、そして彼女について知りたくなり、図書館で本を借りた。

自分に対する処罰感情

多くの人は、いろんな葛藤があっても自分を保ち、その時々で役割を果たしつつ、平静を装って生きている。

でも…一歩間違えば、道を踏み外すこともあるだろう。そして一度踏み外してしまうと、なかなか元の自分には戻れない。


特に彼女のような生真面目で、几帳面な性格の人間は、目的達成のためにはやめられなくなってしまったのではないだろうか。

たとえそれが「売春」という犯罪行為だとしても。


周りから見れば、順風満帆に見える人生。でも本人にとっては、「こんなはずじゃ…」という挫折の繰り返し。


ままならない人生からふと現実逃避したいと、始めた水商売のバイト。最初は軽い気持ちだったのかもしれない。


そして昼の顔とのギャップに、「違う自分」を演じる自分にゾクゾクしたのかもしれない。


気づいたら後戻りできないところまで行き、”立ちんぼ”までするように。
行きずりの人間に身体を売る。明らかに自分を大切にしていない。


彼女にとってダメな自分を罰する行為が売春、つまり自己処罰。売春は単なる手段であり、目的は金でも無ければ快楽のためでもなかった。


自分を汚してほしい。

売春という行為によって、モノのように扱われる時間。その時だけ現実から切り離され『無』になれたのでは…。そして『生きてる』実感が持てたのでは…。

その過程で事件に巻き込まれ、高学歴、一流企業、キャリア社員、売春、渋谷、円山町、ラブホテル街、不法就労、外国人…いろんなキーワードが散りばめられ、よりセンセーショナルに取り上げられてしまった。

以降27年間、彼女を殺害した犯人は捕まることもなく、未解決なまま真相は闇の中。

すべては推察でしかない。
彼女の心のうちも。

彼女の軌跡を辿って

本書の中では、容疑者として捕まったネパール人のこと、また彼の裁判についてかなり詳細に書かれているが、被害者についてはあまり深掘りされていないように感じた。

もちろんプライバシーに配慮して、そして死者に鞭打つようなことはしたくないという著書の想いがあってのことかもしれない。

しかし前述した理由で彼女がどんな人だったのか知りたいと本書を読み始めたので、少し不完全燃焼だった。


一方で、30年近く前と、まだ個人情報保護法もない時代で、被害者や容疑者だけでなく事件に関わった人物が本名で掲載されていたり、お店やビル名など今も実在する場所もあったりして驚いた。

思わずGoogleマップで検索し、おでんやビールを買ったコンビニ、売春行為をした駐車場、殺害されたアパート、目撃情報を提供した果物屋など、彼女の軌跡を辿ってみた。

たしかに彼女はいた。
殺害されるその日まで。

渋谷の街に。
雑踏の中に。
暗いアパートの1室に…

今回読んだこの本は、著者も編集者もみな男性みたいだけど、女性の視点から書かれていたらどうだったのかな。

あるならば、女性が書いたこの事件の本も読んでみたいと思った。