変わったわたし、それでも「わたし」は「わたし」
こんにちは。
わたしスタイルLABOのacoです。
2022年7月に脳卒中で倒れてから、まもなく3年が経とうとしています。
わたしはいまなお、片麻痺や高次脳機能障害、痛みや痺れといった後遺症とともに暮らしています。
歩き方も、話し方も、見た目も──あの日を境に大きく変わりました。
「元気だったころのわたし」とは、外から見るとかなり違って見えるかもしれません。
それでも、変わらないものもあります。
できないことが増えても、見た目が変わっても、中身は変わっていない。
わたしは、今もやっぱり「わたし」です。
ありがたいことに、近くに住む両親や、同居している子どもたち、そしてそばにいてくれるパートナーは、そんな変化を自然に受け入れてくれました。
無理に気を遣うでもなく、腫れもののように扱うでもなく、以前と同じように接してくれる日々の中で、どれほど救われたかわかりません。
「変わったこと」と「変わらないこと」の両方を見つめてくれる人たちがいることに、感謝の気持ちしかありません。
けれど──
それが当たり前ではないことも、少しずつ実感するようになりました。
わたしを想ってくれているからこそ
たとえば、母の姉(わたしの叔母)のこと。
おばさんはそう遠くない場所に住んでいるので、小さいころはよく会っていたし、会うたびにとても可愛がってくれました。
高齢にはなりましたが、今も変わらず元気だと聞いています。
朗らかで明るくて、大好きな叔母です。
そんな叔母から、直接言われたわけではないけれど、母がぽろりと口にしたことがありました。
「かわいそうで、会ったら泣きそうになるから会えないって……」
そうかあ。そう言われてしまうと、こちらから会いに行くこともためらってしまうなぁ…。
母から話を聞き、倒れる前の「わたし」と、いまの「わたし」のギャップが大きすぎて、どう受け止めていいのかわからないのだろうな、と想像はできます。
小さい頃からあんなに可愛がってくれていたからこそ、姪が不憫で会えないのでしょう。
同じように、もう一人の叔母(母の妹)も似たような反応だと聞きました。
「また会える日が来るかな」と思いながら、もしかしたらこのまま会えずに終わるのかも……と考えてしまうこともあります。
わたし自身、会う勇気があるのか?と問われると…変わった自分を見せる勇気がないのかもしれません。叔母の心情を思うと、傷つけたくないという気持ちが優先します。
叔母たちの記憶にある、元気でハツラツと動けるわたしのイメージを変えてまで会う必要があるのか、と考えてしまうのです。
自己受容と他者受容、その“ズレ”に揺れる心
さらに、遠くに暮らす弟に対しても、そんな“わずかな距離”を感じる瞬間があります。
退院後、帰省するたびに何度も顔は合わせてはいますが、ある日突然「障害をもつ姉」になったことに、まだ気持ちが追いついていないんだろうなと感じるのです。
わたし自身は、いまのわたしを受け入れている。
不自由さや痛みと向き合いながらも、できることを一つずつ積み重ねて、日常を取り戻そうと奮闘中です。
でも、それだけでは足りないんだなと感じることがあります。
「自己受容ができているからといって、他の人が同じように“いまのわたし”を受け入れてくれるとは限らない」
その事実に気づいたとき、「障害を受け入れる」ということの意味が、わたしの中で少し変わりました。
障害を受け入れるって、誰の視点での「受容」なのか。
それは、わたし自身の問題だけじゃなく、他者の心の中にある問題でもある。そして、その“ズレ”が生まれるたび、わたしの中にある小さな痛みが、静かに疼くのです。
他者に「受け入れてもらう」ことの難しさ
誰かに悪気があるわけじゃない。
でも、ふとしたまなざしや言葉に、わたしは自分の「障害」をまざまざと突きつけられる瞬間があります。
「前とは違うね」「大変だったね」という目線や言葉。
そのどれもが優しさである一方で、「以前のわたし」と「今のわたし」を比べる線引きでもあるのだ感じることも。
障害のある体と生きているわたしにとって、「まわりの近しい人間がわたしをどう見るか」は、まったく無関係とは言い切れません。
(たまに道ゆく人であからさまにジロジロ見てくる人もいますが、まあ他人ならどう見られてもいいいですけど。)
自己受容の火を守るように、自分自身を肯定していても誰かのまなざしひとつで、それがふっと揺らいでしまうこともあります。
「わたしが変わった」ということは、わたしを見る周囲の人にとっては、大きな変化なのだと。
「わたしを受け入れてもらえない現実ごと、生きる」
できることなら、全ての人に「大丈夫だよ」「障害のあるいまのあなたも前と同じように受け止めるよ」と言ってほしい。という気持ちがあります。
でも、現実はそうはいかない。
それはわたしのエゴを押し付けているだけ。
そう簡単に心の準備ができる人ばかりではないし、ましてや高齢の親戚や、距離のある関係性の中では、なおさらです。
それでも、わたしはわたしを生きていくしかない。
会えないことを恨むのではなく、会えないままでいるその人の想いをも抱きしめつつ。
「障害を簡単には受け入れてもらえないこと」
もまた、現実。
それを“影”として避けるのではなく、その存在も認める。
そして“いまのわたし”を、否定しない。
「わたしは、変わらずここにいるよ」と、静かに灯をともしつづけていたいのです。